コラム 犬食文化は悪なのか?

さて2019年8月に中国の犬肉ライチ祭りが行われている

玉林市犬肉市場を取材してきました。

 

▼ その記事はこちら

玉林 犬肉取材記

 

そこで犬食文化に関して、私なりの感想です。

 

 

ちなみに私は犬も猫も好きです
(愛玩動物として)

 

私は中国犬食文化を見て、実際に自分でも犬肉を食べました。

犬肉取材記 玉林 6 犬肉レストラン 偏

 

私は犬を積極的に食べたいとは思いませんし、特別犬食文化を廃絶したいとも思いません。

 

しかし一方で、激しく犬食文化を忌み嫌っている人たちが、多数居る事もよく理解しています。

 

犬食文化を批判しているのは、欧米の動物愛護団体を始めとする

沢山の愛犬家達、また犬食文化圏の韓国、中国でさえ

犬はペットとしての認識が広まってきており、犬食を止める動きが出ています。

 

 

しかし、犬を愛する愛犬家同様に

犬を食物として捉えている方々の権利も、同様に尊重されるべきだと思います。

 

 

犬食文化圏の方々は、生まれた時から犬肉を食べているし、それが普通です。

 

それを我々の持っている1つの狭い価値観で、他の文化を安易に批判する事は、独りよがりでしかありません。

 

それは、ホークで食事する文化圏の人間が、箸を使っている文化圏の人間を批判するのと同じで

別にどちらが正解という事では無いからです。

 

 

私は犬食文化を否定も肯定もしません。

 

それは彼らの文化を守りたいという観点が有るからです。

彼らがもし、もう犬を食べたくないと思ったら、やがては犬食文化は無くなるし、それは仕方ありません。

 

しかし、外圧によって異なる文化を破壊する様な事には、断固反対です。

 

 

例えば我々は一般的にを食用とします。

しかしインド人の8割を占めるヒンドゥー教徒は、牛を聖なる生き物として食べる事は有りません。

(※実際はヒンドゥー教はいくつも宗派が在り、牛を食べるヒンドゥー教系も有ります)

 

彼らからすれば、普通に牛を食べる人達は奇妙に映るでしょう。

 

ヒンドゥー教徒に牛食文化を否定されて、我々はどういう気持ちになるでしょうか?

 

それが犬食文化を否定する事とほぼ同じ構造になります。

 

 

人それぞれ生まれ育った環境や、文化が違います。

 

小さな物差しで物事を計って、否定するのは簡単ですが

それは幼稚な上に、自分以外の文化は認めないという

排他的原始的な考え方です。

 

 

現在欧米を中心に犬食文化は、激しい批判の的になっています。

 

彼らは犬食文化を

● 残酷だ

● 犬を食べるべきではない

● 犬は人間の家族だ

 

と、こんな感じで感情的に口撃します。

 

 

しかし、そんな彼らも鳥、豚、牛、は喜んで食べます。

 

我々日本人もそれらを普通に食べます。

 

 

彼らがベジタリアンで、一切の動物肉を食べるのを批判するのなら、まだ一定の理解はできますが

一般の家畜は食べる事に何の抵抗も無いのに、犬を食べる事になると、嫌悪感をあらわにします。

 

では、なぜ犬だけが特別に食べてはいけないのでしょうか?

 

 

それには、幾つかの主張が在ります。

1 犬は頭が良いから

2 犬は可愛いから

 

犬は頭が良いでしょうか? 確かに他の哺乳類と比べても

人間になつくし、学習能力も有るように思えます。

 

しかし簡単な足し算も出来ないし、言葉も喋れません。

また、頭が良い生き物は食べてはいけなくて、そうで無い物は食べて良いという理屈も良く解りません。

 

次に、犬は可愛いから食べてはいけない、という理屈は

全く主観的な意見だと思います。

 

も、も、も可愛いと思う人は居るでしょう。

 

恐らく犬食文化を批判している方々の、本当の理由は

自分が食べないから、お前らも食べるな

という価値観の押し付けだと思います。

 

 

この論理はとても恣意的で、主張に何の明確な根拠が有りません。

 

我々日本人もクジライルカを食べます。

 

この文化も欧米の文化では許容できず、犬食同様に批判の的になっています。

 

この食文化に対する、他者からの強要はとても危険な暴論の様に感じます。

 

たとえば想像してみて下さい。

ベジタリアンの人が、世界の人に

「あなた達は今すぐ動物食を止めなさい」

と言われたら、我々はどんな気持ちなるでしょうか?

 

食文化とは人間の繁栄してきた歴史に密接に関係しており、我々は飽食の今でこそ、食物の選択権がありますが

状況が変われば、我々はそこに在るタンパク源を食べるしか生きる道は有りません。

 

お腹を空かしたライオンに

「シマウマは食べて良いけど、犬は食べてはいけない」

何て言う事に何の意味が有るでしょうか?

 

そんな長い歴史の中続いている食文化を、たかが外国人の好みなんかに、合わせる必要が有るのか、私には解りません。

 

 

厳しい言い方をすれば、人間は現在食物連鎖の頂点に立っています。

人間の繁栄を維持させる為なら、人間以外の全ての生き物は食料になります。それがこの世の現実です。

食物の選択が出来る状態だから、えり好みが出来ているだけです。

 

16世紀のフランスで飢餓が発生した際に、貴族の夫人が

パンが無ければケーキを食べればいいじゃない

と言って、庶民の厳しい生活と、かけ離れた現実観を持った貴族の無知を表現しているフレーズです。

※マリーアントワネットの言葉として広まっていますが、現在の研究では誤りである事が分っています。

 

私はこの貴婦人と犬食文化を否定する人達の発想は、近い様な気がします。

 

「可愛い犬を食べないで、豚さんを食べなさい」

庶民からすれば

「豚も牛も鳥も、何も無いのですよ」

 

そもそも、食べ物が十分ではない時代に、犬食は始まったと考えられています。

 

現在の北朝鮮でも犬肉は貴重なたんぱく源です。

 

自分の子供たちが飢えて死にそうな時に

犬肉を食べて生き残るか、一家全員餓死するか

その状態になっても、犬食文化を否定できるでしょうか?

 

食文化とは究極、力関係と効率の元に成り立っている訳です。

 

 

オーストラリアではカンガルーを食べるし、ブラジルの先住民族等はサルを一般的に食べます。

 

彼らに何を食べるな、とか、何を食べろとか、我々異文化圏の人間が従わせる必要が有るでしょうか?

 

犬食文化を有している文化圏の人間も、我々にも犬を食べろと強要している訳では無く、食べたいものを食べれば良いのではないでしょうか。

 

私は異文化を破壊して、自分たちの文化に従属させるのでは無く、異文化を尊重して、互いに共存していける社会を作って行く事が、本来の人間の在り方ではないかと思います。

 

これまでの人間社会は宗派の違いや、民族の違いという

カテゴリーに別けられた人々は互いに奪い、殺し合ってきました。

 

これからは別の考え方を認めて、共に未来へ歩んでいく

共存共栄の社会がやって来る事を一日も早く望む限りです。

 

 

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